物語は1928年、当時九歳だった「私」が回想する形式で始まる。「私」は男子児童二十五人からなる「コマンチ団」という団体の一員で、日曜以� ��は「団長(チーフ)」の引率のもとで、自由な時間を集団競技のスポーツ、キャンプ、あるいは博物館めぐりなどで過ごす。団員の結束は固く、団長への信頼は絶大なものがあった。この「団長(チーフ)」が「コマンチ団」の少年たちを「囚人護送車にも似た」バスで送迎するときに「笑い男」の話をして聞かせる。つまり、この小説は、いまは大人になった「私」の回想の中に、ジョン・ゲダツキーという名の「団長(チーフ)」の語る「笑い男」の話が入り込む、という形になっている。
彼らがどこから来た言葉やことわざ
笑い男は、金持ちの「宣教師」夫妻のひとり息子だったが、幼児のとき中国の山賊に誘拐され、身代金を払ってもらえなかったために、「ヒッコリーの実のような形の頭をして、髪の毛がなく、鼻の下には口の代わりに大きな楕円形の穴が開いているといった顔」にされてしまった。だが、芥子の花びらで作った仮面で顔を包まれ、生き延びた笑い男は、山賊のノウハウを手に入れると、逆に山賊を「地下深いところにありながら内部には気持よい装飾が施されている廟」に閉じ込め、国境を越えて活躍して、世界一の資産家になる。資産の大部分を寄付したり、ダイヤモンドに換えた上で海に沈めてしまった笑い男は、チベット国境の小屋の中で「米を 食い、鷲の血を啜りながら」ブラックウイングという斑狼、オンバという小人、白人に舌を焼き切られたホングという蒙古人の大男、欧亜混血で笑い男に思いを寄せる娘の4人の仲間と共に生きていた。
ここまで「笑い男の話」が進んだ後、「メアリ・ハドソン」という名の団長のガールフレンドが出現する。「ビーヴァのコートを脱ぎ、こげ茶のドレスで」コマンチ団の少年たちにまじって、初めて球を打ったらしいメアリは、大当たりで、それから一か月の間、彼らと一緒に野球をする。「笑い男の話」が、男の破滅に向かって急展開するのは、メアリがいつもの時間にバスに乗り込まなかったときのことだった。
笑い男の親友の斑狼ブラックウイングが、宿敵デュファルジュ父娘に捕われてしまう。ブラックウイング� �釈放と引き換えに、笑い男は自分の身を、みずからすすんで父娘に差し出す。だが、父娘は笑い男を欺いて、ブラックウイングのかわりに「左足を白く染めた」狼を鎖でつないでおく。「その身を有刺鉄線で一本の立木に縛り付けられた」笑い男は、「アルマン」というその狼から「自分はブラックウイングではない」という事実を告げられ、欺かれたのを知って、仮面の下の素顔を父娘にさらしてみせる。娘は気絶したが、父親は笑い男を拳銃で撃ち続ける。
友人を紹介する人
団長は笑い男の話を、ここでいったん終え、メアリを待つのをやめて、セントラルパークに向かう。少年たちがいつものように野球を始めて、しばらくして、メアリがパークに現れる。「乳母車をひいた二人の子守に両側から挟まれたような恰好で」座っていたが、メアリは少年たちにまじってゲームに参加することも、「私」の自宅への招待に応じることもなかった。「メアリ・ハドソンがコマンチのラインナップから永遠に脱落したということは、私には分かりすぎるほど分っていた」のだ。
帰りのバスの中で、笑い男の最後が語られる。拳銃で撃ち殺されたはずの笑い男は、なんと弾丸全部を吐き出して、デュファルジュ父娘に「恐ろしい笑いを笑っ」て彼らを ショック死させてしまう。有刺鉄線で立木に縛りつけられた笑い男は、とめどなく血を流すにまかせていたが、あるとき森の動物たちに救いを求め、小人のオンバを連れてくるように頼む。瀕死の笑い男のもとに到着したオンバは鷲の血を差し出すが、笑い男はそれを飲まず、ブラックウイングの名を呼ぶ。ブラックウイングがすでに殺されてしまったことをオンバから告げられた笑い男は、鷲の血の入った瓶を握りつぶし、みずからの仮面を剥ぎ取って死ぬ。「そしてその顔が、血に染まった地面に向ってうつむいたのである。」笑い男の話がここで終わると、コマンチ団の少年たちは、いちように恐怖に襲われる。バスを降りて、一枚の赤いティッシュペーパーが風にはためいているのが「芥子の花びらで作った誰かの仮面のように」� ��えた「私」は「歯の根も合わぬ」ほどふるえ、帰宅すると「すぐに床に入るように言われたのである。」
wrod amazomはどこから来たの
この小説の中で、「コマンチ団」の少年たちに「笑い男」の話を語る「団長」の容姿は、低い身長、ずんぐりした胴長の体型、黒い髪、大きな鼻など、明らかにアメリカインディアンの特徴をそなえている。バスの運転席に「後ろ向きに跨いで腰をかけ」る姿勢で語るのだが、それは、まさに「馬乗り」のポーズだ。「私」が回想する話の中で「笑い男」は「団長(チーフ)」のメタファーであり、「笑い男」の話は、ホースインディアンと呼ばれた「馬盗人」「コマンチ族」の物語のメタファーなのだ。(おそらく、白人の母とインディアンの父の混血で、最後の酋長(チーフ)といわれた「クアナ・パーカー」が「笑い男」のモデルだと思われる)「鬱蒼と茂る深い森の中に入って」動物たちと� �良しになり、そこでは仮面を脱いで、「動物たちの言葉」を使いながら「美しい優しい声で彼らに話かけたのだ」と述べられる笑い男の姿は、自然と一体になって生きるインディアンそのものではないか。
では、メアリ・ハドソンとは何か。「団長(チーフ)」の「ガールフレンド」として出現し、いっときはコマンチ団と交わりながら、「乳母車をひいた二人の女にはさまれ」団長に別れを告げなければならなかったのはなぜか。
「メアリ・ハドソンがコマンチのラインナップから永遠に脱落した」と信じてしまった「私」が「蜜柑を握りしめながら」「後ろ向きに歩いて行くのは常にもまして危険を孕み、・・・いやというほど「乳母車」にぶつかってしまっ。」た、とあるのは何を意味するのか。「乳母車」とは何か。「蜜 柑」とは?
メアリ・ハドソンとは、たぶん「白人」のメタファだろう。彼女が「自分もゲームに加わりたい」と言いだすと、それまで「ただ彼女の『女性』らしさを単に見つめるだけだったわれらコマンチどもの目つきが、今度は睨みつけるように変わった」とあるのは、インデアンに近づこうとした白人への彼らの警戒感の暗示だろう。あるいは、作者は特定の個人をモデルにしているのかもしれない。インディアンとアメリカの白人の歴史に詳しくない私がわからないだけで、すぐに思い浮かぶような人物がいるのかもしれない。「後ろ向きに歩」くとは、後退または撤退作戦を意味し、「乳母車」は「幌馬車隊」か。「蜜柑」とはインディアンの武器だろう。
いずれにしろ、メアリ・ハド ソンが泣きながら走り去っていった後、笑い男の悲惨な、しかし従容として死んでいく様子が「団長」の口から語られる。これもインディアンの滅亡のメタファであることは間違いないと思われるのだが、ここに至って、悲劇はもう一つのイメージを喚起する。「有刺鉄線で『立木』に縛りつけられ、血を流して死んでいく」「弱々しい声で愛するウイングの名を呼んだ」が、もはやウイングが存在しないことを知って「胸を引き裂くような最後の悲しみの喘ぎが笑い男の口からもれた」「それが彼の最後だった。そしてその顔が、血に染まった地面に向ってうつむいたのである」という叙述は、まさに十字架上のイエスのそれではないか。福音書の伝えるイエスの死は「午後三時過ぎ」とあるが、コマンチ少年団は「学校のある日には、� ��つも『午後の三時に』」団長の車が迎えに来てくれるのだった。そして、笑い男の最後を語る団長がバスに乗り込んできたのは「ある四月の、ひどく肌寒い日」「五時十五分の黄昏が落ちかけていた」ときだった。イエスの死は午後三時過ぎ「太陽が光りを失っていた」ときだった。
この小説は、コマンチ団」の一員だった「私」の回想という構造の中に、「団長(チーフ)」の語る「笑い男」の話という構造が入れ込み、それぞれの登場人物が、別の次元の存在のメタファーであり、しかも、それが重層的である。非常に複雑な入り組んだ構造で、細部に私が解き明かしていないメタファーもいくつかあるだろう。そしてこれは「インディアン」というアメリカ社会のマイノリティーのメタファーであると同時に、もう一つのマイノリティーである作者サリンジャーの属するユダヤ民族のメタファーなのではないか。小説の最後で、当時「九歳(サリンジャーの実年齢)」だった「私」は、帰宅と同時に倒れ込んでしまうほど恐怖にふるえた。自分だけが「現存する笑い男� ��嫡出の子孫」である、つまりインディアンの嫡出の子孫である「私」は救いようのない悲惨な最後をむかえる笑い男の運命と自分を重ね合わせたのだ。それはまた、作者サリンジャーが、けっして直接には語らない、けれど、終生自分の存在の根の部分で意識せざるを得なかった「宿命」ではなかったか。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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