本書 著者あとがき より引用
ルイス・ハインが全米児童労働委員会のために写真を撮りはじめた当初は、工場でも
炭鉱でも街頭でも農場でも、子どもたちを雇うことは、アメリカではごくありふれたことで
した。いくつかの州でには児童の労働を制限する法律がありましたが、ほとんどの場合、
もともとそれほどきびしいものではない上に、取り締まりもゆるやかでした。子どもたち
を搾取から守る常識となる基準はなかったのです。
変化は長く苦にがしい闘争の末、ゆっくりと訪れました。1912年のアメリカ児童局の設立
は大きな突破口となりました。この政府機関は、働く子どもの労働条件を調査し、児童労
働の廃絶へと世論を動かしました。全米児童労働委員会が進めた キャンペーンとルイス・
ハインの説得力あふれる写真のおかげで、アメリカ人の多くが、政府は本気で子どもの
カトリーナ後の滞在悪い
福祉を考えるべきだと信じるようになり、政府がそれに応えたのです。
それ以後、社会の改善を目指す人びとは、すべてのアメリカの子どもに平等に効力をも
つ児童労働法の制定に向けて、連邦議会と法廷でエネルギーを傾けるようになりました。
1916年と1918年の二度にわたって、議会はこのような法律案を通過させましたが、二度
とも最高裁判所で却下されてしまいました。このような法律は各州の州権をおかすことに
なるし、"子どもが労働契約をかわす自由を奪う"と判断したからです。
1924年、議会は全米に適用される児童労働法案を通過させました。しかし、この法案は
子どものあつかいについて国家の権力が地域にまでおよ ぶことに反対するグループに
よって、なきものとされました。彼ら圧力団体は、多くの州で法案の通過を妨げ、10年後
には葬り去ってしまったのです。
児童労働は、1930年代なかばの大恐慌の間に下火になりはじめました。失業の嵐が吹
金withought水を採掘する方法
き荒れ、大人までが、それまで子どもがやっていた賃金の低い仕事を請け負うようになっ
たからです。それと同時に、この時期、大きく力をのばした労働組合が、断固として子ど
もを雇うことへの反対を打ち出すようになったこともひとつの原因です。また、産業界自身
も、より高い教育を受けた労働者を必要とするようになり、児童労働はじょじょに消えて
いったのです。
児童の労働を規制する国法は、1938年になってようやく定められました。フランクリン・デ
ラノ・ルーズベルト大統領が署名した労働基準法には、すべての州の労働者に適用され
る最低賃金と労働時間の上限が定められていると同時に、児童の労働についての� �限
ももりこまれていました。この法律により、工場および炭鉱は、16歳未満の子どもを雇うこ
とを禁じられました。
1949年、議会はこの法律での制限を商業的農業、輸送業、通信業、公益企業などにも
イグアスの滝へアスンシオンパラグアイ
広げる修正を行ないました。また、それ以外の職業についても、16歳未満の児童が就学
時間中に働くことを禁じ、放課後や休日の労働時間にも制限を加えました。
全米児童労働委員会が設立した1904年とくらべると、今日までに状況は飛躍的によくな
りました。しかし、現在でも、児童の労働は完全になくなっていません。今日でも、移民し
てきたばかりの家庭では、人知れず母親の横でつらい仕事にたずさわる子どもたちや、
農場から農場へと渡り歩く50万人ともいわれる非常に貧しい子どもたち、法律で禁じられ
た仕事についていたり、学校に行かずに長時間働いている何十万という子どもたちがい
ます。
全米児� �労働委員会は現在でも児童労働法を守らせるために闘い、子どもたちの権利
と尊厳を促進するために闘い続けています。委員会では、1985年以降毎年《ルイス・ハイ
ン賞》という賞を設け、ハイン自身と同じようにアメリカの子供たちの生活を改善するため
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