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2012年6月4日月曜日
2012年6月2日土曜日
植草一秀の『知られざる真実』: 警察・検察・裁判所制度の近代化
名張毒ぶどう酒事件で名古屋高裁は、殺人罪などで1972年に死刑が確定した奥西勝死刑囚(86)の再審開始を認めない決定をした。
この問題は、日本の刑事司法の根本的な問題を示す一事例である。
ぶどう酒の王冠についた歯型は、鑑定では誰のものかはっきり分からなかった。
王冠自体、事件当時のものとは違うらしい。
農薬を混入する機会は、奥西氏以外の人にもあった。
「自白」は取られた。動機は妻と愛人の三角関係を清算するためとされたが、その後に全面否認された。
自白にあった、農薬を入れてきた竹筒は見つかっていない。
検察の主張では、毒物はニッカリンTだとされた。弁護側は、市販のぶどう酒にニッカリンTを混ぜた溶液から副生成物「トリエチルピロホスフェート」が検出されたが、事件当時の鑑定で、飲み残しのぶどう酒から副生成物が検出されなかったことから、事件に使われた毒物はニッカリンTではなかったと主張した。
しかし、検察側は、エーテルという薬品で成分を抽出すると不純物=副生成物が検出されないとの鑑定結果を出した。
裁判所は、事件で使われた薬物がニッカリンTではなかったとは証明されていないとし、自白は根幹部分で十分信用できるとして、再審開始を認めない決定をした。
刑事事案に対する国家の対応には二つの類型がある。
「無辜の不処罰」と「必罰主義」だ。
「無辜の不処罰」とは、
「たとえ十人の真犯人を逃すことがあっても、一人の無辜(むこ)を処罰するなかれ」
というものだ。無辜とは罪を犯していない人のことを指す。無実の人間だ。
これに対して「必罰主義」は、
「たとえ十人の冤罪を生み出すことがあっても、一人の真犯人を逃すことなかれ」
というものだ。
正反対の姿勢である。
真犯人を一人も逃さないためには、「疑わしきを罰す」ればよい。「疑わしい」なかに無実の人間が含まれる。しかし、真犯人を逃がさないためには、その部分=冤罪発生に目をつぶる。
これに対して、人権尊重の立場から生まれる姿勢が「無辜の不処罰」である。「疑わしきを罰せず」とすれば、真犯人を逃す可能性はある。しかし、無実の人間を処罰することの人権侵害の重さに鑑みて、あえて、この道を選択するのである。
2012年6月1日金曜日
ウォール街大暴落 (1929年) - Wikipedia
1929年のウォール街大暴落(ウォールがいのだいぼうらく、英語: Wall Street Crash of 1929[1][2])、または大暴落(英語: Great Crash)、1929年の株価大暴落(英語: Stock Market Crash of 1929)は、その影響の広がりや期間を考慮に入れればアメリカ合衆国の歴史の中でも最大級に壊滅的な株価大暴落である。
この株式の崩壊を表すために、「ブラックサーズデー」、続いて「ブラックフライデー」、「ブラックマンデー」および「ブラックチューズデー」の4つの段階が通常使われている。大暴落は1日の出来事ではなかったので、この4つの段階はすべて適切である。最初の暴落は1929年10月24日(木曜日)に起こったが、壊滅的な下落は28日(月曜日)と同29日(火曜日)に起こり、アメリカ合衆国と世界に広がる前例の無い、また長期にわたる経済不況の警鐘と始まりに急展開した。株価大暴落は1か月間続いた。
経済学者や歴史家達はこの株価大暴落がその後の経済、社会および政治のできごとにどのような役割を演じたかについて意見の一致をみていない。「エコノミスト」誌は1998年の記事で、「手短に言えば、世界恐慌は株価大暴落と共に始まったのではない」と主張した[3]。さらに大暴落の当時に、世界恐慌が始まったのかどうかは明らかではない。1929年11月23日、「エコノミスト」誌は、「大変深刻な株価大暴落が工業生産の大半が健全でありバランスが取れていたときに工業に深刻な後退を生むだろうか?...専門家は、幾らかの後退はあったに違いないが、それが長引くものか、全体的産業不況を生み出す期間まで続く必要があったかを証明する十分な証拠が無いことに同意している。」と問いかけた。しかし、「エコノミスト」誌は、「幾つかの銀行は疑いも無く破綻し、また今後も予測されている。このような状況下で銀行は商業と産業の資金を繋ぐ余力があるだろうか?ないだろうか?銀行の位置付けは疑いも無くこの状況下のキーであり、何が起ころうとしているかは霧が晴れるま� �適切に評価できるはずがない」とも警告した[4]。
1929年10月の大暴落はアメリカ合衆国における不動産価格の低落時期(ピークは1925年だった)に来ており、工業化諸国における経済後退時期である世界恐慌に導く一連の出来事の始まりに近い時であった。
[編集] 大暴落以前
大崩壊の当時、ニューヨーク市は世界の大都市となり、そのウォール街は世界の指導的金融センターの一つになった。ニューヨーク証券取引所は世界でも最大級の株式取引所だった。
大暴落に先立つ10年間、すなわち狂騒の20年代[5]は、都市における富と過剰の時代であり、投機の危険性について警告があったが、多くの者は市場が高い価格水準を維持できるものと信じた。1920年代半ばから上昇を続けたダウ工業株平均は、1928年から1929年にかけて急速に上昇し、アメリカの一部に株投資ブームを起こしていた。1929年の夏以降には工業指標は下向きはじめ、株高を危ぶむ声もあったものの、ウォール街や経済学者の中にはこれを一蹴する意見もあった。大暴落の直前、経済学者アーヴィング・フィッシャーは、「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」という有名な予言を行っていた[6]。しかし、大きな強気相場の中での楽観論と金融上の利益は、ニューヨーク証券取引所の株価が崩落したブラックサーズデーに雲散霧消した。この日に落ちた株価はさらにまるまる1か月間前例のない率で落ち続けた[7]。
ブラックチューズデーまでの数日間、市場は非常に不安定だった。売り先行と大量取引の間に短時間価格上昇と快復の期間がちりばめられた。経済学者で著作家のジュード・ワニスキーは後に、当時アメリカ合衆国議会で論じられていたスムート・ホーリー法の成立見込みとこれらの変動を関連付けた[8]。大暴落後、ダウ工業株平均は1930年初期に回復したが、反転して再度暴落し、1932年の大きな下げ相場の中で最安値に達した。1932年7月8日、ダウ工業株平均は20世紀始まって以来の最安値となり、1954年11月23日まで1929年に達した水準まで戻ることはなかった[9][10]。
!doctype>1929年央に株を購入し持ち続けていた者は誰でも、株価が回復するまでにその成人してからの人生の大半を費やすことになった。
2012年5月17日木曜日
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2012年5月16日水曜日
元看護師の日本人の女、覚せい剤持ち込みで死刑判決…マレーシア : ニュー投
2011/10/25
- 1 :☆ばぐた☆ ◆JSGFLSFOXQ @☆ばぐ太☆φ ★:2011/10/25(火) 11:21:52.11 ID:???0
- ★邦人女性に死刑判決 覚せい剤持ち込みで
・覚せい剤を持ち込んだとして危険薬物不正取引の罪に問われた元看護師竹内真理子被告(37)の判決公判が25日、マレーシア の首都クアラルンプール郊外の高等裁判所で開かれ、死刑判決が言い渡された。
同国では一定量以上の薬物所持で有罪が確定した場合の法定刑は死刑。
起訴状によると、竹内被告は2009年10月、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイからクアラルンプール国際空港に到着した 際、スーツケースに覚せい剤約3・5キロを隠し持っているのが見つかった。当初、同被告の薬物所持量は約4・6キロとされたが、鑑定後に修正された。
竹内被告は知人の依頼でドバイを訪れた際、中東系の男性にスーツケースをマレーシアに運ぶよう指示されたと説明。中身は知らな かったとして無罪を主張していた。
しかし、竹内被告が09年にドバイ-クアラルンプール間を複数回にわたって往復、大量の薬物を持ち込んだことなどから検察側は 同被告が国際的な薬物取引に関与した疑いもあるとして追及していた。
元スレ→
2012年5月14日月曜日
坂本ひろし活動日誌: 県政・市政など地方政治のこと
一ヶ月前、Aさんは、派遣会社から自己都合退職を迫られ、アパート追い出しの通告をうけた。
金もない、住むところもない。そこで、Aさんは生活保護申請に役所へ出向いた。
... 役所では、現在のアパートは保護基準以上なので生保申請は受け付けられない、家賃の安い所を探してそこへ移ってから(契約書ができた時点でもいいから)来るように、と言われた。
土地勘もなく、自転車も取り上げられてしまい、八方塞がりになったAさんは、ついに共産党の事務所に電話をした。
たまたま電話に応対した僕が支援体制に入った。10月下旬である。
富山県労連の力を借りて、彼が派遣会社にたいし契約期間中である事を認めさせ、追い出しを食い止め、また待機中の賃金支払い等も要求。
一方、生活保護申請をすべく、新住居確保のため動いた。雇用促進住宅の緊急入居を目指したが、派遣会社の不誠実な対応で必要書類が整わず、諦めざるを得なくなった。最終的に、民間のアパート入居の道を選択。
11月上旬、Aさんが体調を崩し、救急センターに担ぎ込んだ。会社は社会保険に未加入、保険証がないため、全額負担(6500円)の請求。
(何と、先月は給料明細には社会保険加入を示す保険料天引の記録があったにも関わらず、保険証は未支給だった。今月は未加入である。何じゃそりゃ!)
回り道を強いられ、いくつもの壁を乗り越えて、11月22日、ようやく民間アパートの契約にこぎつけた。
その足で契約書類をもって役所へ出向き、書類の記載不備等々、面倒且つドーデモいいような訂正注文にも文句一つ言わずに対応し(不動産屋と2往復もして!!)、この日の夕方、やっと生活保護申請を受理するとの回答を引き出した。
それにしても、すばらしすぎる超お役所仕事っ!!
!doctype>2012年5月12日土曜日
J-NewYork アメリカ旅行記
by Hironobu Hamada, 2.26.2001
*前回までのスト−リー
ニューヨークを8月19日に出発し、ロスに向かったアメリカ横断ドライブ。 まず、I-95を南下してサウスキャロライナのチャールストンに向かう。その後は フロリダから西に向かい、ニューオーリンズ、ヒューストン、オースティン、 サン・アントニオなどを経由してエルパソというテキサスのメキシコ国境 沿いにある町までやってきた。
*8/29(Tu) El Paso, TX 〜 Alburquerque, NM
本日の走行307マイル(トータル3813マイル)
エルパソはメキシコとの国境沿いにある町である。それゆえ、メキシコ系 住民が多く、町のいたるところでスペイン語を耳にする。スペイン語ははここだけで なく、ニューヨークなどアメリカのあらゆる町で耳にするが、エルパソでは、英語 よりもスペイン語を耳にすることのほうが多いのである。おそらく、市民の半分以上が スペイン語ネィティブであると思われる。
そんな中、エルパソでは、まずすぐ近くにあるネィティブアメリカン(インディアン) のリザベーション(居留地)に行ってみた。5分ほどで着いたが、カジノがあるだけで 特別見るべきところはない。アメリカでは、ネィティブアメリカンのリザベーションが あれば、大抵の場合、カジノがある。これは、アメリカ政府がリザベーションを設けて いる代わりに、カジノの営業を許可しているのである。彼らの収入は、このカジノが 非常に大きい。カジノに行ってみると、人が列を作って並んでいる。入ってみると、 スロットマシンしかなかったが、平日にもかかわらず大盛況である。40〜50代の 女性がが多かったが、日本人がパチンコに並んで行くのと同じ感覚だと思われる。 アメリカでは、通常、カジノを作る場合は、"大都市から何マイル以上離れていなけれ ばならない"、といった厳しい規制があるが、ここではダウンタウンのど真ん中でカジノ が許可されていることに驚いた。
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